随想舎 

日光の歴史

日光の歴史を、簡単に紹介します。


引用書
『知られざる日光』(読売新聞宇都宮支局編)
『もうひとつの日光を歩く』(日光ふるさとボランティア編)
『絵葉書に見る郷愁の日光-石井敏夫絵葉書コレクションより』

【日光に関する基礎用語の解説】


日光の名の由来 日光国立公園 東照宮 陽明門 五重塔 日光彫


日光下駄 神橋の構造 勝道上人 円空と日光 弘法大師 いろは坂


馬返 霧降高原有料道路 雲龍渓谷 滝尾浄水場 日光八景 小田代ガ原


清滝神社 山内発電所 旧帝国製麻発電所 朝鮮通信使 鳴虫山


日暮門とも呼ばれる東照宮の陽明門

日暮門とも呼ばれる東照宮の陽明門(提供=石井敏夫)


千人行列の神輿渡御と観衆

千人行列の神輿渡御と観衆(提供=石井敏夫)


はじめに


 日光は人工美と自然美の粋を集めた名所として、国内はもとより、諸外国にもその名を知られている。階段状に形成される山岳地形は滝あり、湖沼ありと、千変万化、四季折々の美しさは他所に例をみない。日光開山勝道上人は秀麗な山容に神仏を感じ、仏徒は険しい山岳に修行の道を求め、堂社を建立した。
 日光の歴史は自然環境とあいまって発展したと言っても過言ではあるまい。東照宮や大猷院の伽藍、二荒山神社や滝尾の社殿は老杉と調和し、地形は神秘性をかもしだす。
 古代から近代まで、恵まれたこの地に多くの人々の足跡が歴史として残された。栄枯盛衰のくりかえしは我々に何を語ろうとしているのだろうか。
 通り一遍の観光で終るのではなく、自然を楽しみながら、先人の足跡を訪ねてみよう。そこには、現代では忘れられてしまった庶民信仰や暮らしの証しが発見できるだろう。


古代


 日光の歴史は、天平神護2年(766)、勝道上人(下野芳賀郡高岡の出身)が霊峰男体山の登頂を志し、大谷川を渡って四本竜寺を創建した時に始まるといわれている。山頂を極めたのは16年後の天応2年(782)で、多くの苦難を伴い三度目の登攀での成功であったという。上人は男体山中腹の湖畔に神宮寺を創建、後にそれが中禅寺として繁栄した。以後、山麓の四本竜寺付近と共に、日光は山岳信仰の拠点として、近郷のみならず広く関東全域からの信仰を得て多くの修験者や僧が入山し、堂社も各所に整備されるようになったという。
 それに伴い高僧の来山も伝えられる。中でも弘法大師空海の滝尾神社創建の伝説や、慈覚大師円仁の日光来山の伝説は、勝道上人の開山伝説に象徴されるような山岳信仰の霊場というだけでなく、真言・天台の二つの密教に裏付けられた正統な霊場としての日光の位置を確保し、古代における日光の信仰基盤の重厚さや深淵を高めることとなった。
 もちろん、山岳信仰を核とする日光の歴史において、勝道上人の偉業を最重要な拠り所としていたことはいうまでもなく、上人以後、日光山の最高責任者の別当は上人の高弟が継承したことを伝えている。
 こうした伝説的な時代を経た後、古代末期の近隣の地方豪族の伸長に伴って、豪族出身の僧侶が別当に就く時代を迎えるのである。


中世


 山岳信仰の拠点として次第に整備されてきた日光は、山岳信仰の上に神仏習合の信仰が加わって、「二荒山」(神が宿る山)と「日光山」(仏が護る山)の双方の名称を併用しながらその基盤を固めていったといえる。
 特に中世に入ると、男体-女峰-太郎の三山に、それぞれ神(男体権現-女体権現-太郎権現)と仏(千手観音-阿弥陀如来-馬頭観音)が宿るという日光三所権現信仰が新たに広まった。そうした信仰が、『日光山縁起』にみられるような赤城明神との戦などで知られる神話として民間に流布するようになっていくのである。
 そしてそのような民間の信仰の支えとして日光山は隆盛期を迎えることになるが、当時の日本における他の大寺社勢力の例にもれず、広範囲の寺社領を領有する大寺院(大神社)の様相を呈していくのである。「往古社領六十六郷」といわれる寺社領は、現在の日光・足尾・今市・藤原・栗山・鹿沼・粟野・宇都宮の各域に及ぶもので、大きな寺社勢力となった日光の経営を支える地域であった。
 また日光は、源頼朝をはじめとする源氏の信仰を早くから得ていることに見られるように、中世において既に、関東における護(まもり)としての位置を築いていたようである。それは、日光山別当が、鎌倉の源氏にとって特別な意味のあった勝長寿院の別当と兼務していた時代が二百年に及んでいたという事実を見ても明らかである。
 しかし戦国時代を迎えると、地元の戦国領主である壬生氏による日光山領への介入が顕著になり、やがて豊臣秀吉そして徳川家康の時代を迎えることで、さらに新たな転換を迫られることになるのである。


近世


 日光の歴史の中で最大の画期は、言うまでもなく元和3年(1617)の東照大権現の鎮座である。徳川家康の死後、その霊柩が久能山から日光へ遷座され、東照社(後に東照宮に昇格)が創建されたことで、日光は一気に徳川家の祖廟を祀る霊地となり、江戸幕府の権威を支える重要な拠点となったのである。
 日光に祀られたのは、家康自身の遺言で一周忌が過ぎたら日光山に勧請し、関東八州の鎮守となることを願っていたからといわれる。その遺言を実行して日光に立派な社殿を造営し、東照大権現という神として祀った人物は、日光山貫主の天海大僧正であった。その後、寛永13年(1636)には、社殿の全てを建て直す「寛永の大造替」が行なわれた。天海と将軍家光による大断行で、現在に伝わる豪華絢爛な社殿と結構美がこの時に整えられたのである。また社殿のみならず御神領といわれる近隣の所領も寄進され、経済基盤も固められた。そしてさらに日光山の最高責任者として法親王(皇族)が迎えられる慣行となり、「輪王宮」として歴代継承することとなった。
 こうして、徳川家の祖霊を祀る日光東照宮の威光が確固たるものになり、歴代の将軍家をはじめ諸大名が日光に詣で、さらに朝廷からは毎年奉幤使が参向するという慣例がしかれるようになった。将軍の日光参詣は「日光社参」と呼ばれ、しだいに膨大な行列をしたてることになり、朝廷からの公家らの参詣も盛んになって日光街道や例幣使道などが整備された。併せて一般庶民の参詣も盛んになり、門前町や宿場も整うなど、日光東照宮の鎮座がもたらした影響は江戸時代を通じて多大なものとなったのである。


近代


 明治維新による徳川政権の崩壊は、徳川家の権威の象徴であった東照宮を祀る日光にとって大きな衝撃となった。いわゆる「明治の御瓦解」である。明治政府による神仏分離・廃仏毀釈の政策は、神仏習合信仰によって成り立っていた日光の大改造を迫るものであった。輪王寺宮は廃され、二十五院と八十坊あった寺坊の組織をはじめ、御神領や日光山内の諸管理を行なっていた日光奉行も撤廃された。さすがに、日本一の結構美を誇った日光だけに、保存運動の成果もあって、山内の仏教施設の破却・分離行為は最小限に留められ、三仏堂と相輪木棠の移転にとどまった。そして一時は満願寺という寺号までまとめられた寺院組織は、輪王寺の寺号が復活され、十五ケ院による構成で再出発することとなった。さらに、東照宮と二荒山神社の社格が定められ、「日光二社一寺」としてそれぞれ存立し現在に至っている。
 しかし、こうした変革は、一面では日光の地がそれまでの宗教的な緊縛から開放され、新たな近代化の道をいち早く開くこととなったのである。東照宮をはじめとする豪華絢爛な建造物群に加え、日光連山全域の大自然の環境が、霊場としての制約を解かれ、観光地としてにわかに活気づいてくるのである。それはまず、女人禁制であった奥日光への解禁(明治5年)を端緒として、一気に多くの人々が信仰を離れた目的で訪れる様になったことに現われている。また特筆すべきは、外国人による近代的な観光・行楽の場としての日光が早くから形成されていたことで、山岳登山やリゾート地として賑わいをみせていくのである。
 こうした意味で、日光は近代化を日本にさきがけて取り込んだ観光地として再生する道を築いたといえよう。


日光山の沿革


 日光山の歴史は遠く奈良の昔に遡る。天平神護2年(766)、勝道上人が山岳修行者として、はじめて日光の地に足を踏み入れ、四本竜寺を創建した。そして、補陀洛山(男体山)の絶頂にいたらんと苦修練行、遂に延暦元年(782)、大願を成就する。その後、地主権現を奉祀、神宮寺建立、千手観音像の造立など、日光山の基礎を創設した。弘仁8年(817)、勝道入寂ののちは第一の高弟教旻が当山第一世の座主となる。
 弘仁11年(820)、弘法大師空海が登山、滝尾権現を勧請と伝えられる。嘉祥元年(848)には、慈覚大師円仁が来山との伝えもあり、延年舞の古儀はここに始まるという。このように、天台・真言の法流が当山に伝わり、堂社の造営も盛んに行われ、二荒山満願寺と総称されていたとみられる。ところが、平安末期の保延年間(1135~41)には日光山と呼ばれるようになっている。
 日光山の信仰が確立するにしたがい、勢力も増大。地方豪族とのかかわりによる座主争いも起こる。このための兵火による堂塔焼失などもあったが、やがて、日光山と鎌倉幕府との関係が出来る。文治2年(1186)、源頼朝は当国寒河郡の地、十五町を三昧田として常行堂に寄進している。さらに、承元4年(1210)には第24世座主として、源実朝の護持僧、弁覚法印が補任せられ、日光山の信仰形態は大きく変わる。彼は熊野修験の法を導入し、日光修験の大法を補い、三山形態を確立した。これまでの二神信仰が次のような三神信仰に変わった。
 (三山)  (三仏)   (三所)    (三神)    (三社)
 女峰山 - 阿弥陀如来 -女体権現  - 田心姫命   - 滝尾
 男体山 - 千手観音 - 男体権現  - 大巳貴命   - 新宮
 太郎山 - 馬頭観音 - 太郎大明神 - 味耜高彦根命 - 本宮
 弁覚は頽廃していた堂塔を修営し、光明院を建立、これを本寺として衆徒36坊、小坊300余坊へと発展させた。これを光明院時代といい、彼を日光山中興とも称する。
 この後、日光山に皇族座主の時代がおとずれる。彼らの多くは天台座主を兼務し、常には鎌倉に居住し、当山の執務は御留守居座禅院が扱った。応永27年(1420)、第37世慈玄大僧正が退任以後は、座主の宣旨は廃絶する。その後は当国壬生一族の昌瑜法印が座禅院で執務を行い、慶長18年(1613)の昌尊法印まで14代、代々壬生氏が権別当職を務めた。室町期の日光山は関東の一大霊場としてその名を誇り、院々僧坊500余坊とも伝えられ、日光修験や日光文化の全盛時代となる。
 ところが、天正18年(1590)、秀吉の小田原城攻めの際、日光山衆徒は壬生義雄とともに出兵、北条氏に加担した。秀吉は怒り、門前屋敷と足尾郷を残し、すべての寺領を没収する。僧徒は四散し、当山は滅亡状態となった。
 しかし、慶長18年(1613)、天海が貫主に就任し、元和3年(1617)、家康の遺骸を日光山に遷座、神廟を創設する。ここに、勝道以来、八〇〇年の歴史を基盤に東照大権現鎮座の地、日光山が脚光をあびる。寛永の大造替(1634~36)は全国の匠の粋を集め、1年5カ月という驚くべき日数で落成した。当山は徳川幕府の直轄地となり、旧衆徒の寺跡再興、堂社廟塔の修造、造営も盛んに行われ、家光没後は大猷院霊廟も創建される。さらに、明暦元年(1655)からは、輪王寺宮法親王門跡が全山を統括することになった。日光山の年中行事も規定され、日光ならではの文化も発達し、大いに繁栄する。
 だが再び、日光山大変革の明治維新を迎えた。慶応3年(1867)、輪王寺門跡法親王宮は断絶する。翌年、戊辰戦争が起こった。戦火は近隣まで迫るが、日光山衆徒の尽力により堂塔伽藍は今日に残された。神仏分離令の太政官布告は、旧来を一新し、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺となる。明治以後は、交通機関の発達に伴い、外国人や文人墨客の来訪する景勝地となり、学術研究の場としても注目される。次第に日光のすばらしさは内外に紹介されるようになり、近代観光地をめざして急速に発展した。
 昭和9年、日光は国立公園に指定される。それは言うまでもなく、自然の美と建築の美を兼ね備えた、日本有数の地であったからだ。それ故に、日光は太平洋戦争の戦火も免れ、他に類を見ない文化遺産は、現代に継承されたのである。