日光に関する基礎用語の解説
日光に関する基礎用語を解説します。
引用書
『知られざる日光』(読売新聞宇都宮支局編)
『もうひとつの日光を歩く』(日光ふるさとボランティア編)
『郷愁の日光-石井敏夫絵葉書コレクションより』
『日光四十八滝を歩く』(奥村隆志)
日光の名の由来 日光国立公園 東照宮 陽明門 五重塔 日光彫
日光下駄 神橋の構造 勝道上人 円空と日光 弘法大師 いろは坂
馬返 霧降高原有料道路 雲龍渓谷 滝尾浄水場 日光八景 小田代ガ原
日光の名の由来
「二荒(ふたら)」を「にこう」と音読、「日光」に。その語源は、フトラ転化説、いろは坂近くの岩の風穴が春秋2回吹き荒れた二荒説など、諸説ある。記録的には「補陀洛(ふだらく)山」(梵語のPOTALAKA=観音浄土)が古く、これを二荒にしたとするのが通説。
日光国立公園
わが国の国立公園制定は昭和9年で自然美の優れた日光、大雪山など8カ所が指定された。現在は、28カ所である。
日光国立公園は、栃木、群馬、福島、新潟の4県にわたり、その中心は奥日光の自然美である。山岳、高原、湖沼、瀑布などが密度濃く存在する。そして日光市街には、東照宮をはじめとする人工美の極致が輝いている。これだけ備わっているのは、世界に無類といわれる。
東照宮
慶長18年(1613)、第53世貫主に就任した天海は、4カ月ほどで社殿を造営し、元和3年(1617)4月、家康の霊柩を日光山に遷座した。寛永13年(1636)、三代将軍の家光は、社殿のすべてを建て直した。これが寛永の大造替で、現在ある建築物はこの時のものである。建築には、幕府の作事方大棟梁の甲良宗弘があたり、ほぼ1年半ほどで、この大事業をなし遂げた。絵画は狩野派の絵師が腕をふるう。金箔や漆をふんだんに使い、極彩色に彩られた彫刻に埋めつくされる豪華絢爛な社殿が誕生した。境内には、諸大名や外国から献納の灯籠などが建ち並ぶ。
東照宮の拝観の際には、神庫のように、その建物の目的に応じた建築様式を学ぶとともに、たくさんの彫刻に注目したい。また、建物を支える基礎となる石造技術や美術を見のがすことはできない。
陽明門
語源は、中国の古典に由来。天下太平に導く聖人の政治理念を宿すという意味もある。平安京・大内裏(だいり)の同名の門は、外郭12門の1つに過ぎないが、東照宮の方は境内の建築物群を代表する意味も込めて命名されたと、大河直躬・千葉大教授は指摘する。
五重塔
東照宮の正面、千人枡形と呼ばれる石段を登った所に石大鳥居がある。花崗岩の巨大な鳥居で、東照宮鎮座の翌年、元和4年(1618)、九州筑前国の黒田長政が奉納したもの。海路で江戸まで運ばれた石材は、小山乙女河岸まで利根川、思川の水運を利用し輸送された。さらにここから日光まで、例幣使街道を人力で運搬された。今市室瀬の「十石坂」とは、ここで、人夫が食べた米の量だという。
五重塔は、慶安2年(1649)、福井若狭国の酒井忠勝が、家康三十三回忌にあたり奉納した。文化12年(1815)、火災により焼失。文政元年(1818)、酒井忠進が再建する。五智如来を安置するこの塔の特色は、各層の屋根がほぼ同じ大きさで、非常にスリムな感じがする。しかも、最上層のみ唐風で、以下が和風という特徴がある。
日光彫(にっこうぼり)
東照宮造営の際、全国各地からやって来た彫刻師たちが、余技に作ったのが始まりといわれる。「ヒッカキ」と呼ばれる独特の三角刀を用いる技法が特徴。浮き彫、まる彫、かご彫などの方法がある。木地はトチノキ、カツラ、ホウなどが用いられ、盆類、引き出し、テーブル、その他の製品も多い。
日光下駄(にっこうげた)
江戸時代、神官、僧侶の境内参入には草履が原則だった。しかし、石や雪の多い山内(さんない)では不便であったため、竹の皮で編んだ草履に木の台をつけた「御免下駄」を履いた。これを実用的に改良したのが日光下駄である。歯の側面は下の方が広く安定し、雪もつきにくい。現在も社寺で用いられ、弥生祭の家体(やたい)に付き添う町衆が履いている。[市指定有形民俗文化財]
神橋の構造
古式は「乳(ち)の木」と呼ばれる橋げたを両岸の穴に埋め、補強材で支える「はね橋」形式。寛永の大造替で和橋との折衷形式になり、明治37年、擬宝珠(ぎぼし)などの装飾を施した。その後の修理は、昭和25-31年と56年の2回。床の高低差約1.7メートル。
勝道上人
天平7年(735)、下野国芳賀郡の生まれ。俗姓は若田氏。32歳の時、四本龍寺を創建し、47歳で男体山の登頂に成功。干害の年には、山頂で雨ごいして五穀豊作をもたらしたという。弘仁8年(817)に死去と伝えられる。
円空と日光
円空は天台宗の僧。円空仏作者としても名高い。
日光には、天和2年(1682)に訪れ、円観坊の高岳(のち光樹院住職)から密教の修法を伝授され、十一面千手観音(現在鹿沼市広済寺所蔵)、笑い薬師像、不動明王像、阿弥陀如来像(以上輪王寺所蔵)を彫る。さらに、元禄2年(1689)再び日光を訪れ、明覚院に観音像、清滝寺に不動三尊像を残した。
弘法大師(こうぼうだいし)
『日光山滝尾建立草創日記』に記される空海の事績は、弘仁11年(820)7月26日来山。龍生滝(りゅうじょうのたき)に7日間念誦、菩提寺建立。中禅寺登山、湖岸に四条木叉(もくしゃ)寺・転法輪寺・法華密厳寺・華厳寺・般若寺を建立。羅刹窟(らせつくう)(風穴)を結界祈念して二荒(にこう)を日光(にっこう)に改める。
9月1日、野口生岡(いくおか)に大日如来を祀る。次いで寂光寺を開く。
9月7日、四本竜寺に帰る。その後、仏岩の北方に修行、女体霊神を勧請し、滝尾を開く。道珍に密教の法を伝授。
12月4日、上洛して滝尾草創を奏上したと記されている。
いろは坂
この名は明智平ロープウエイが開通してから命名された。古くは「中禅寺道」とよばれ、中ノ茶屋から下を「地蔵坂」、上を「不動坂」とよんでいた。急な坂道を上下するため、かつては坂の途中に五軒の茶屋があった。下から深沢茶屋、剣ガ峰茶屋、中ノ茶屋、座頭茶屋、見晴茶屋である。これらは昭和二十年代の地図にも記されているが、中ノ茶屋跡以外は道路改修により跡形もなくなってしまった。
馬返
「馬返」とは、観光バスなどの案内では、「馬も登れない険しい坂道なので馬を返す」とされるが、信仰から考えると、牛馬結界の地であり、女人禁制の地でもあったことから、「牛馬はこの地で帰る」との意と思われる。
霧降高原有料道路
1976年(昭51)に開通した霧降高原のドライブウェイ。霧降滝の上からキスゲ平を抜けて、今市市大笹牧場に通じる有料道路。
雲龍渓谷
女峰山と赤薙山の直下が激しく浸食されてできた、稲荷川上流部にある渓谷の総称。稲荷川支流のアカナ沢、七滝沢には数々の滝がかかる。とくに雲龍瀑は厳冬期、巨大なつららをつくるため、氷壁登攀地として有名である。
滝尾浄水場(たきのおじょうすいじょう)
参道の昌源杉を隔てて、沈でん池、ろ過池、配水池がある。経営は2社1寺の共同事業で、大正15年(1926)創設。日光市の水道より29年も早い。水源は、白糸の滝となって落ちる天狗沢の水、山奥の湧水などで、そのまま飲用できるぐらいの水質。昭和60年、厚生省の「近代水道百選」に選ばれた。
この水道は、社寺と、山内の民家や旅館などにも供給され、山内建造物の防災のためや、社寺を訪れる観光客のために重要な責務を担っている。
日光八景(にっこうはっけい)
1711年(正徳元)輪王寺宮公弁法親王は、日光山の名勝八景を撰んで、つれづれに陪従の僧徒・坊官等と詩作をこころみた。
小倉春暁(おぐらのしゅんぎょう)
(小倉―小倉山)
鉢石炊煙(はついしすいえん)
(鉢石―鉢石町)
含満驟雨(かんまんのしゅうう)
(含満―憾満ガ淵)
寂光瀑布
(寂光―寂光滝)
大谷秋月(だいやのしゅうげつ)
(大谷―大谷川)
鳴虫紅楓
(鳴虫―鳴虫山)
山菅夕照(やますげのせきしょう)
(山菅―神橋)
黒髪晴雪
(黒髪―男体山)
小田代ガ原
戦場ガ原の西隣に広がる標高1400メートルの湿原。天然のカラマツとミズナラの林に囲まれ、四季を通しての景観美で有名。以前はホザキシモツケ、ニッコウアザミの大群落が見られたが、シカの食害にあい、その数は著しく減少した。そのため近年、貴重な湿原の植物を守るため、周辺に柵が張られた。
清滝神社
820年(弘仁11)、弘法大師空海が開いたとされる。この地の岩壁に一条の滝がかかり、その景観が中国大鷲山の清流に似ていることから、清滝権現が勧請されたという。その後密宗修験道場として栄えた。
山内発電所
東照宮・二荒山神社・輪王寺による自家用発電所である。稲荷川の水を使用。
大正3年(1914)東照宮の300年祭記念事業として建設された。山内の文化遺産を守る防火設備のためである。
ふだんはこの電力を、社寺および、山内の居住者に供給する。
この発電所も以前はゆとりがあり、かつて日光小学校や、日光橋の街灯へ電力を寄付していたという歴史がある。
旧帝国製麻発電所(現所野第一発電所)
1897年(明治30)下野製麻(株)第二工場水車原動所として発足し、製麻工場内の動力や電灯に直接電力を供給していた。その後、工場は帝国製麻(株)日光製品工場となり、引き続き電力を供給していたが、1933年(昭和8)発電部門が工場から独立し、日光発電所と命名された。1951年(昭和26)東京電力(株)に統合され、現在では所野第一発電所として稼動している。
朝鮮通信使
家康が対馬藩に交渉を命じ、朝鮮との国交を回復。慶長12年(1607)に使節を招いて以来、将軍の代替わりなどのたびに江戸に招へい。文化交流の任務を担い、文化8年(1811)まで12回来た。家光の時代、琉球使節も3回日光を訪れた。
鳴虫山(なきむしやま)
標高1103メートルのこの山は、カタクリの群落地として知られる。カタクリが終わると、アカヤシオ、トウゴクミツバツツジなどのツツジが咲き、合方(かっぽう)から銭沢不動尊、素麺滝への道は花のトンネルになる。また秋の紅葉の美しさは「日光八景」の1つに数えられている。
この山に雲がかかると雨になり、子どもの泣虫にたとえて鳴虫山と言い習わされてきたが、古くは大懺法嶽(だいせんぽうがたけ)とも称した。この辺りは、かつて日光山の僧たちが行った冬峰修行の行場である。そしてその最終の星の宿への行者道は、1200年前、勝道上人がたどった道でもある。